創立50周年記念 引き継いできたものと次に伝えたい思い

対談
名古屋工業大学 ながれ領域 大学院教授
河田克博
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伊藤建築設計事務所 代表取締役社長
小田義彦

コーディネーター
名古屋工業大学 ながれ領域 准教授
北川啓介

小田:
本日は、創業者伊藤鑛一の母校でもある、名古屋工業大学で永らく日本建築歴史意匠の教鞭をとってこられた河田克博教授にお越しいただき、伊藤建築設計事務所の歴史を振り返りながら、外から見た事務所の印象と今後のあるべき姿のヒントになるようなお話が伺えればと思います。コーディネーターは、同じく名古屋工業大学で建築計画の教鞭をとりながら、海外の大学との教育連携などでご活躍の北川啓介准教授にお願いしました。お二人とも設計の実務経験をお持ちで、幅広い示唆に富んだご助言を期待しています。
1967年、伊藤建築設計事務所設立

北川:
創立から半世紀を迎えられて、創立の過程からも実質的に地域に根ざす、ということが一貫しているかと思います。東海地方というと、ものづくりの有数のメーカーがあったり、それを支える中部の財界があったり、伊藤建築設計事務所はそれらの企業と密接な関係を築いてこられた。創立以来、東海銀行(現 三菱東京UFJ銀行)、松坂屋(現 J.フロントリテイリング)、中部電力、名古屋鉄道、東邦ガスなどを主要株主とされていると伺っています。
小田:
私は、1975年に伊藤建築設計事務所に入社、2011年に生え抜きとしては最初の社長に就任しました。弊社は、1967年に名古屋事務所、1968年には建築主の強い要望もあって東京事務所を開設、以来二ヶ所を拠点として全国どこでもご要望に応じてお仕事をさせていただいていますが、基本は地域に根ざした、地域を支える設計事務所を標榜してまいりました。
河田:
創立者の伊藤鑛一という人物がどんな経歴をたどって自分の設計事務所をつくったかというのを調べてみました。伊藤鑛一は名古屋工業大学の前身、名古屋高等工業学校の、1922(大正11)年、第15回の卒業生です。彼の恩師が、鈴木禎次という、東海の近代建築をつくった非常に偉大な建築家でした。伊藤鑛一は卒業後、鈴木禎次の仕事を手伝い、その後、大阪へ行き現在の日建設計につながる長谷部竹腰建築事務所に入社しています。
鈴木禎次が亡くなったのが1941年。その直前に彼の元を離れて、名古屋高等工業の少し先輩にあたる池田宮彦という人のいた長谷部竹腰建築事務所に移って仕事をする訳です。1976年の建築画報(建築画報107号「伊藤建築設計事務所」特集号 1976年9月発行)に、「建築家・伊藤鑛一さん」という、竹腰健造の文章があります。池田宮彦の紹介でその事務所に入ったのがちょうど太平洋戦争真っただ中のときで、その後事務所は、住友土地工務に吸収合併され、後の財閥解体で日本建設産業に社名変更、そこから独立したのが日建設計工務、即ち現在の日建設計です。その日建設計工務の設立に際し、最初は取締役として加わり、後に専務・副社長と歴任した後、社長であった尾崎久助が退職したあと、伊藤鑛一が社長に就任しました。
小田:
伊藤鑛一は1900年に桑名市で生まれ、1967年、67歳のときに日建設計工務を辞め、地元名古屋で伊藤建築設計事務所をつくりました。1958年に日建設計工務の社長になる少し前の1950年には名古屋事務所の所長に就任していますので、事務所設立に際し名古屋事務所の気心の知れた精鋭スタッフ9名を連れ出した訳です。
河田:
彼が独立したとき、名古屋経済界主要5企業からの出資を得ました。ほかにも、名古屋高等工業出身の建築家はいますけれど、名古屋経済界をバックにというような事務所は見当たりません。
小田:
そういう意味では特異な事務所ですね。創業の直前の日建設計工務時代に、現 鋤納特別顧問が担当で名古屋商工会議所ビル(1966年竣工)を設計していますが、それ以前から中部経済界とは人的に太いパイプができていたのだと思います。
河田:
日建設計のような会社経営を経て事務所を立ち上げていますから、いわゆる組織建築設計事務所というものはどうあるべきかがわかっていたのではないでしょうか。自分が直接手を動かして設計する、いわゆるアトリエ系の建築家ではなく、人を使うのも上手だったのでしょう。
小田:
私の入社が1975年、伊藤鑛一は1987年に87歳で亡くなっています。事務所設立から20年後です。最初の10年間は会社へ毎日出てきて元気に社長業をやっていましたが、後半の10年間は病気がちでした。私の入社以降で伊藤鑛一が毎日会社に顔を出していた期間は2、3年しかないのですが、当時の役員たちとのやりとりや、直接伊藤鑛一から日本を代表して海外での建築家の会議に出たときの話を聞いたりして、伊藤鑛一の印象は強く残っています。現 森口会長はじめ私以前に入社した人たちは直接の薫陶を受けていますが、私以降に入社した人たちは伊藤鑛一の人となりを知るべくもありません。当時伊藤鑛一は、「ボス」と呼ばれており、しばしば「ボスに酷く怒られた」などという話を当時の上司から聞いたことはあっても、私たち若手が直接怒られることはなく、いつもニコニコしているやさしい人でした。
河田:
先ほどの竹腰健造は、「外柔内剛」という言葉が伊藤鑛一さんの人柄を評するのにもっとも適当であると書いています。外に対してやわらかく、内に対して強い、と。伊藤鑛一さんは、仕事に対しては非常に熱心で繊細な神経をもって、常に接する人に信頼感を与える人だったと。それがやはり、事務所をつくるときにこれはという人たちが大勢ついてきてくれた要因だったのではないかと推察します。
創立以来続く、チーム制での設計

北川:
設計をする場合は、そのなかでどういうふうにチームをつくっていくかというのが、完成する建築物にも表れてくると思っています。事務所の創業当初、どういう組織だてを伊藤鑛一さんが考えられていたのか、そしてそれは現在どう継承されているのでしょうか。
小田:
今の伊藤建築設計事務所では、「設計監理総括」が、名古屋、東京それぞれに数人ずついて、その人たちを頭に、直接そのプロジェクトをまとめるプロジェクトリーダー、さらにその補佐をする計画スタッフ、そして構造と設備のスタッフ、これで1チームを組みます。私の入社当時は、スタープレーヤーが名古屋に3名(鋤納・高木・森口)、東京に1名(織田)居ました。彼らチーフにその手伝いをするスタッフが数名くっついている。そのチームで並行して幾つかのプロジェクトを任されます。チーフがスケッチしたものをスタッフが清書して、チーフとベテランスタッフがクライアントのところへ行って打ち合わせをしてくる。当時は、チーフによってやり方が違いますが、打ち合わせ図面に手を入れたり、その場でスケッチしたりして見せて建築主の了解をとってから、持ち帰ってきたものを清書する、その繰り返しでプロジェクトが進んでいきました。今ではプロジェクトを確実に進めるために、決められた帳票によってクライアントや請負者とのやりとりの議事録はすべて残っていきますが、当時は、計画の過程を記録に残すことも大切ですが、できあがったものをクライアントが満足してくださることがすべてだ、というおおらかな時代でした。しかし、チーフをその計画スタッフ、そして設備と構造のスタッフがサイドからバックアップするというチームで設計を進めるやり方は、当時から変わらないですね。
北川:
そのときから、つまり、設計「部」で分かれていくのではなくて、プロジェクトごとにチームを組んでいたのですね。それだけクライアントと密着して、ひとつの物件をひとつのチームで考えていくやり方でしょうか。
小田:
そうです。クライアントのほうから前回と同じ人に担当させてくれというお話をいただくことも多く、総括もプロジェクトリーダーもスタッフも、自然と前回と同じチームになります。ありがたい話です。とくにここ東海地区のクライアントは質実剛健の気風があり、常にコストバランスと工程を重要視されます。超短工期での完成を要望されるケースもあり、要求に合致させるにはどういう方法がよいか発注方式も含めて助言していくのも、我々の責務であると思っています。
北川:
仕組みをつくっていくことで、クライアントの要望が反映・解決されるということでしょう。最近は、リスクマネジメントに最大限留意して設計を進めていくというのが一般的になってきています。しかし、伊藤建築設計事務所では、リスクマネジメントを担保しつつ、それに加えて付加価値を高めていくというやり方をずっとされてきたということですね。
小田:
若い担当者たちは、斬新な材料を紹介されたり、格好のよい建物を見聞きしたりしてくると、それに使われている材料をよく吟味することなしに使ってみたいと考えます。事務所内でさまざまな設計段階でレビューをしますが、出たばかりの材料とか工法を担当者もよくわからずに使っているという気配が見えたら、別の使い慣れた材料に変えることを提案します。新しいことにチャレンジする意欲があることは大切なことですし、新しい材料をまったく使うなという訳ではありませんが、メンテナンスと時間軸を考えて材料や工法を設計者が充分に納得できたものを使うことを心がけています。
河田:
そのへんのやり方も、名古屋の風土に根ざした考え方になりますね。先端にも目を向けるけれども、ちょっと間をおいて考えてみよう、という。
小田:
建築というのは、50年、100年使い続けるものなので、そのためにはどうすればいいかを考えないといけない。一方で、素材の寿命には長短があり設備や外装などは15年20年で更新していかなければならない。建物全体は長くもたせるけれど、そういう部分が簡単にやり替えやすいように設計するということも重要ですし、そういう視点はこれからも持ち続けていくべきだと思います。
北川:
アセットマネジメント、プロパティマネジメント、コンストラクションマネジメント、そして今、ファシリティマネジメントという意識が、一般的にだいぶ広まってきました。伊藤建築設計事務所はそれを比較的早い時期から、竣工までが建築の業務ではなく、管理も含めてそれ以降もマネジメントしていく、クライアントに積極的に関わっていきながら、建物も人間関係もいい状態を続けていくという考え方が働いていますね。
小田:
リピータークライアントに限らず、必ずその建物が寿命を終えて壊されるまでのことを思い、長期保全計画を立てるようにします。「何年後にここは傷みますから、これを取り替えてください、そのために予算をこれくらい見ておいてください」というのを竣工時に予めつくってお渡しする訳です。そうすると、クライアントの担当部局も予測がつく訳ですから、前もって予算取りができます。また、コンサルタント契約をしているクライアントが現在10社余りあります。これは、現 森口会長が30年以上前に始めたことで、「契約金額の多寡でなく、有償でやることに意味があり、普段からコンサルタントに関する契約を結んでおいて、クライアントと良好な関係を持ち続けることが重要で、作業が発生した都度実費をいただくことにすればよい。」と言い続けてきました。病院やテレビ局がその最たるものです。24時間休みのないような建物については、どういうリスクがあるかということを前もってこちらからアナウンスをしています。そうして、その建物を長持ちさせるためのコンサルタント契約を結んでおくと、ちょっとした改修とか増築とかの要望が必ず出てきて、そのお手伝いをすることも設計者の仕事だという考えです。
北川:
そういったところからクライアントからの信頼も厚くなり、リピーターにつながっていくというのがひとつの大きな特徴だと思います。
この10年ぐらいの作品をいろいろ拝見したところ、オフィスなど一般のビルディングタイプにも、地域に開かれた場所を設けておられます。たとえば、2015年に完成した中京テレビ放送本社ビル。それまではテレビ局というとどちらかというと閉じられたところにスタジオがあるというかたちでしたが、現在は地域に開かれた、まわりの施設との関係を考えた建物になってきていますね。
小田:
中京テレビ放送本社ビルは、建築主側からはBCP(事業継続計画)対応というのがいちばんの大きな目的でした。災害、とくに地震時の浸水に備えて、テレビ局にとっての心臓部、電源であったりスタジオだったり、そういうものは2階以上に上がっています。1階には外部の方にも使っていただけるような、240人ぐらい入れるホールがあり、さまざまなイベントができるようになっています。テレビ局は、普段からよく知ってもらい番組を見てもらうことが使命です。東隣に都市公園があり、災害時にはそこが避難場所となることも想定し、その公園に向けて建物外壁に取りつけた大画面のテレビ(デジタルサイネージ)からは、避難してきた人たちのニーズに沿ったニュースが流れます。周辺地区を巻き込んだBCP対応、そういう考え方はもういろいろな業種にとって重要になってきています。
大きな震災後の変化

北川:
建築業界でも近年の3つの大震災はそれぞれ大きなきっかけとなったと思います。災害というキーワードを最近は建築の解説文などでもよく見かけます。
河田:
阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震の3つの震災は、それぞれに特色があって、建築に与える影響もみんな違っています。阪神淡路大震災は、震度7という大きな揺れがありました。名古屋のあたりでは震度3でしたが、1978年に起きた宮城県沖地震に端を発した1981年に耐震基準見直し以降、震度6弱でも建物が倒壊しない、逃げる時間の余裕ができるように基準が変わってきており、被害の多くはこの新耐震以前のものでした。
東日本大震災のときには津波の問題と、それと原子力発電という難しい問題がありました。津波ということに対しては、建築の構造設計そのものではなんともしがたい。防ぎようがない、ということがわかりました。ですから、水が来た際に、どこか高い建物の中へ、屋上へ、逃げてもらう。津波に対しては、二次災害を防ぐ、後のことを考えるということが世の中の当たり前になりました。
熊本の地震の場合は、最初の震度7、最初にめちゃくちゃ揺れて壊れた建物も多かったのにそれは予震だった、それに耐えた建物も本震で倒壊した訳です。だから震度7が2回来ても壊れないような建物が必要になってきました。それは現在の基準ではまだありません。専門家たちがこれから考えていくことでしょうが、あの3つの震災が、建築界に与えた影響は非常に大きいと思いますね。
北川:
先ほどのマネジメントにも関わることですが、建物を使用していく上で、もっと長寿命を考えていく、よりフレキシブルに使える、使うときに困ることのないようにという考え方があり、そういうなかで今回の震災が起こりました。クライアントから、東日本大震災以降にそういった要望が出てきたときに、伊藤建築設計事務所としては比較的対応がしやすかったのではないでしょうか。
小田:
そうですね。津波が街の中へ、車や家もろとも押し寄せる映像を多くの人がテレビで見ています。クライアント、とくに愛知県南部の半島地域や海と川の水に近いエリアでは、不自由でも1階の地盤を上げるか、1階は水がついても命は助かり上階へ避難できる、コストはかかりますが建物心臓部を上に上げましょうという提案をしても、承認が得やすい傾向にあります。それから、銀行の本店や母店クラス、そして公共建築などで、周辺地域が被害を受けても使い続けなければならないような施設については、重要度係数といいますが、耐震強度を通常の1.25倍、あるいは1.5倍にしておきましょうという提案をしても、コストも含めて承認いただけるクライアントが増えてきました。
デザインへの視点も持つ

北川:
一方で、社名にもアーキテクツ&エンジニアズとあるように、「用」と「美」があるとすれば、これまでお話しいただいた「用」に対して「美」という観点もあると思います。クライアント視点でいうと愛着であったり、誇りであったり。そういった面に関してはどのようにお考えでしょうか。
小田:
質実剛健というのが社風だと言ってきたこともあって、リスクの少ない、堅実な建物を提供するということをずっとやってきたつもりなのですが、「デザイン」もこれからの我々の仕事のなかの大切な要素になるのではないかと感じています。ここで言うデザインというのは、設備・構造も含めた、技術でバックアップされた設計そのものに加えて、内外の見た目の「美しさ」も同時に意味します。
アップルやグーグルなども、デザイン部門のトップを役員に昇格させました。デザインというのは、商品を売るために考える一部の部署ではなくて、企業全体をこれから永続させるための企業イメージの要になってくる、と考えているのでしょう。経済と同等にこれからはデザインの競争も激しくなると思われています。私たちもこれから、「伊藤建築設計事務所に頼んでよかった」と思ってもらえる要素のひとつに「デザイン」を育て上げなければいけないと思い始めています。
河田:
用を重視するのか、美を重視するのかという傾向は時代によって異なり、とくに近代建築以降は、用が美をつくる、それがいい建築だと言われて我々は育った訳です。
小田:
建物で用と美とどちらを優先するかといったら、まず用だろうと考える時代です。その範囲のなかで、美を最大限追求するのが設計だった訳です。まず機能最優先だ、と。私はそういう意識をもう少し変えていくべきではないかと思っています。たとえば工業製品はデザイン先行で突き進んでいく、それに後から技術を追いつかせるというかたちは、建築でもある部分では必要なのかなと思い始めています。それをクライアントも望むようになってきているように思うのです。
変わらない価値観とクライアントケア

北川:
その一方で、変わらないもの、変えないほうがいいものについてはいかがでしょうか。
小田:
絶対になくしてはいけない機能、そういうものは変えられないものとしてあると思います。原理原則は永遠に変わりません。機能というのはクライアントからの要求ですから、何をやりたいか、そのためにはどうすればいいのかというのを、一緒に協同してつくりあげていくという設計スタンスも変わらないものだと思います。
河田:
「これからの50年を考える」ということですが、今までの50年を振り返って、伊藤建築設計事務所が設計した建物で、どういうものが残っているのでしょうか。
小田:
1967年の創業時としては、中京相互銀行(竣工当時 太道相互銀行)本店、現在の中京銀行本店の1期が1969年にできています。そして、八事の旧中京テレビ放送の本館・放送塔・送信所があります。中部電力一宮営業所というのは1970年ですが、まだ使われています。これは大スパンをPC鋼棒で引っぱって持たせた、鉄骨の調達が自由でなかった当時としては先端技術でした。
河田:
そういうふうにね、今でも50年前のものがいくつも残っているということが、やはりこれから先のことを考える上でのヒントになるのじゃないかと思いますね。
北川:
このビルの14階から見る名古屋の風景は、東京や他の大都市に比べて、ひとつひとつの建物が表情を持っている、というふうにも見える訳です。これまでお伺いしてきた、伊藤建築設計事務所で大切にされている、クライアントとの関わりであったり、クライアントの価値観であったり、そういったものをひとつずつ建築としてかたちにしていくというところも、こういう表情ある街並みづくりへとつながっていく部分があるような気がします。街並みという観点、あるいは地域という観点で大切にされている思いというのはいかがでしょうか。
小田:
私は建築設計というのは、クライアントの夢をかなえることだと思っています。クライアントの要望・機能を充足させたものを、格好よくつくっていくという。しかし、一方でそれは環境破壊の一面を持っており、街並みや景色を変えてしまう作業でもある。だからその建物を際立たせてよいのかどうか。景観への影響が少ないのは、今まであった雰囲気をそのまま残す、たとえばもともと緑の多い街並みであれば、歩道側は緑をそのままに建物は地下に埋めるか目通りの建物をあっさりとつくって、遠くのほうから見える頭頂部を、「ああ、あれがうちのビルだな」とわかるようなデザインをするというのも街並み保全の意味ではひとつの回答だと思います。
河田:
歴史的な街並みというようなことに目を向けている人間としては、非常に共感できます。目立てばいい、というものばかり林立したら、街並みを壊してしまう。ヨーロッパの街並みはわりと新しいものにしてもそろっているでしょう。周囲のことを考えながら、建物の表情をデザインするというのは大切な視点だと思います。
小田:
それぞれ特徴のあるビルが並んでいるのを、ごちゃごちゃしていると思う人がいる一方、これがそれぞれのいい部分が残っているという言い方をする人もいて、これはもう、何が正解かはわかりませんよね。一気にそろえてしまえばきれいな街並みにはなるとは思いますが、デザインのボキャブラリーも、使える材料も、高さも統一して、強制するところに価値はあるのかというと、そうとは言えない気もします。
一方で、東京都心部では土地の評価格の高い分、建物の内外装もきちんとしようという意識があるように思います。小規模だけれども風格のある外観と玄関にしたいとか、隣近所に格調の高い建物が多いので、恥ずかしいことはしたくないというクライアントの気持ちを反映していますね。
伊藤建築設計事務所の強み

北川:
名古屋事務所と東京事務所がありますが、地域以外に役割分担のようなものはあるのでしょうか。
小田:
主にクライアントで分けています。従って東京事務所が東海エリアの物件を担当することもありますし、その逆もあります。地理的な効率よりも、クライアントとの意思疎通がスムーズであることが重要で、クライアント別にチームを決めるというのは徹底しています。
北川:
そういう部分でも、クライアントとの距離を近く保つことはある訳ですね。
小田:
そうですね。そういう伝統というか、誠意を持って人間同士の信頼関係を基に仕事もすべきだという考え方は、伊藤鑛一以降、代々事務所にずっと受け継がれているのではないかと思いますね。
河田:
アフターケアも含めたそういうところが、伊藤建築設計事務所の強みですよね。今までの顧客を大切に維持していくという姿勢がね。
小田:
設計事務所は、代替わりとか経済的理由でなくなってしまうところもある。だけれど、クライアントにしてみればまだ建物が建っているのに、誰が面倒を見てくれるのだ、という気持ちになりますよね。我が社では、アフターケアができるように、1967年から50年分の構造計算書も設計図もすべてストックしており、いつでも取り出せる状態になっています。何らかの検討要望が出たとき、それがすぐに役に立ってきます。最近流行りのデューディリジェンス関連で、持ち主が変わった先から相談を受けることがあります。
河田:
そういう長いスパンで資料をストックしておくという、そういう事務所は私の知る限りかなり少なくなっています。そういう長いスパンで継続できる、継続しているというのは非常にありがたいことですね。
小田:
設計事務所も資料も、維持し続けていくことが大変ですが、大きな意味でのインフラ整備であり社会貢献の意味もあると思っています。
2017年2月実施


河田克博(かわたかつひろ)
1975年名古屋工業大学工学部建築学科卒業/ 1977年同大学院修士課程修了/ 1990年同大学大学院 博士後期課程修了/ 1977 年金剛組技術部設計課/1981年修成建設専門学校助教授・教授/1993年名古屋工業大学助教授を経て、現在同大学教授

北川啓介(きたがわけいすけ)
1996年名古屋工業大学工学部社会開発工学科卒業/1998年同大学院社会開発工学専攻博士前期課程修了/1999年ライザー+ウメモト建築設計事務所/2001年名古屋工業大学大学院工学研究科社会開発工学専攻博士後期課程修了/同大学助手・講師・助教授を経て、2007年より准教授

小田義彦(おだよしひこ)
1975年名古屋工業大学工学部建築学科卒業/1975年伊藤建築設計事務所入社/2011年伊藤建築設計事務所代表取締役社長兼名古屋事務所長