Architects&Engineers-建築家と専門技術者

鈴木賢一 名古屋市立大学芸術工学部 教授 博士(工学)

Office & Environment — 入社時のオフィス環境

 伊藤建築設計事務所が50年の歴史を重ねる中で、私が入社したのは創立20周年を迎える前年1986年のこと。名古屋拠点の専業設計事務所として発展著しく、翌年には創立者伊藤鑛一会長が他界され、鋤納忠治社長(現特別顧問)が率いる態勢に移りつつあった。
 当時名古屋事務所は桜通大津の日本経済新聞ビルにあり、南北に細長いフロアには製図板とジアゾ式青焼き機が健在だった。昼間は閑散とした事務所が、夕方になるとチーム毎の打合せが始まり活気ある雰囲気に変化した。チーム設計では建築家と技術者同士が己の哲学に従ってぶつかり、ときに感情も交じり合う。人と人との関係の中から建築が生まれてくるような雰囲気が新鮮だった。のちに「参加のデザイン」に興味をもつきっかけとなった。また建築に関わる金銭知識がまったくない自分にとって、予算が判断の保留を決断に導く仕組みが不思議に思えた。前日退社が遅くとも、次の朝にはスーツにネクタイ姿でタイムカードを押すという会社員としての貴重な体験だ。以降退職後今日まで、伊藤建築設計事務所に在籍したことが、多様な価値観を自然に容認できる基礎となっている。

Theory & Practice — 研修施設と中学校

 建築学専攻の大学院で教育施設の建築計画研究に取り組んでいた。研究を継続するならば設計実務を経験すべきと、結果的に伊藤建築設計事務所で6年2ヶ月お世話になった。鋤納忠治社長に研究内容を問われ「小中学校の特別教室の再編成」の必要性を説明した。間もなく愛知県の旭高原少年自然の家(1989年)を担当。知ったか振りで子どもたちの研修施設の計画に臨む。自発的に学べる環境とは何か、研修室はどうあるべきか県の担当者に議論をふっかけた。社長からクライアントとの向き合い方を教えられた。思い出すと冷や汗が出る。
 引き続き、名古屋市の東星中学校(1991年)の基本構想に取り組む。ここでも、計画的に新しい考え方に挑戦したいとやる気満々で取り組んだ。行政には積み上げてきた標準設計があり、所要室に手を加えることは容易ではない。研究で叩き込まれた計画理論と実際の設計場面のギャップを思い知らされた。以降、公共施設のもつ動かしがたい規範性と反復性と向き合い続けている。

Festival & Unusual — 博覧会とタワー

 設計経験を大きく広げる貴重な経験をした。
 ひとつは、1989年名古屋市で開催された「世界デザイン博覧会」。恩師である月尾嘉男、原宏両先生のもと「仮設の都市計画」に取り組む。入場者数と適正な施設規模、会場に必要な滞留スペース、トイレ・ゴミ箱の数に至るまで算出の日々。会場のコンセプトづくりにも参画。ブリスベーンの「国際レジャー博覧会」を視察し、エンターテイメントの環境に触発された。建築以外の多様な専門家との交流関係ができた。
 もうひとつは、コンペによる一宮タワー(1995年)。高さの異なる2つのアーチが、地上100mの展望階で連結されている。アーチの中に階段を仕込めないか、展望階のレストランを回転させられないか。夢のような願望と、メンテナンスフリーの外装材、避難のシミュレーションという現実が交錯。エントランスは地上、展望階は高さ100mの2階建て。前例のない建築に消防担当とのやり取りは双方疲れ果てた。濃尾平野に美しい姿が現れる前に大学に戻った。デザインとは戦略のプロセスだと理解した。

Design & Architecture — キャンパスと芸術工学部

 運命か必然か。デザイン博覧会が契機となり創立された名古屋市立大学の芸術工学部(School of Design & Architecture)に赴任した。学部長に就任されたのは恩師柳澤忠先生、しかもそのキャンパスの新校舎の設計に小田義彦社長と取り組むことになろうとは夢にも思わぬこと。芸術工学の理念を議論するかたわら、教育プログラムを具体化するシンボルとして芸術工学棟の計画に突入した。音響スタジオ、環境実験室、映像スタジオ・編集室といった専門スペースと、ワンルームの実習室を3階吹き抜けのアトリウムの両翼においた。大階段はセレモニーや作品展示などに活用され学部のシンボル的空間となった。
 この校舎で学んだ学生たちは、既に1200人を越えた。デザイン都市名古屋から、技術・感性・人間理解を基礎に新しい世界を拓きつつある。課題を把握し、解決の道筋を探索する芸術工学という新しい分野の教育の可能性を感じた。

Children & Architecture — 統合小学校とゴールデンキューブ賞

 愛知県の山間地の下山村(現豊田市)。村内の児童数が減少する5つの学校統合計画に関わる。研究室の学生たちと一緒になって計画段階のワークショップに臨んだ。当時、教員や地域住民とのワークショップさえ珍しかった。さらに一歩進め子どもたちのワークショップに初めて本格的に取り組んだ。低学年では遊び場の提案、中学年は好きな場所の探索、高学年は校舎の模型づくりを実施した。この巴ガ丘小学校は、伊藤建築設計事務所が設計を担当し新しいタイプの木造小学校として完成し注目された。
 この経験は、その後子どもを対象とする建築教育への興味関心へとつながった。国際建築家連合(UIA)が立ち上げたゴールデンキューブ賞への関わりの原点である。課題を的確に捉え、創造的な解決策を提示する建築設計のプロセスは、教育の優れた手法である。子どもの教育への寄与は、建築の社会性の概念を大きく広げた。

Citizen & Participation — 市民活動と保存活用

 千種区の城山覚王山地区で魅力アップ事業が立ち上がった。エルイー創造研究所が事務局となり、地域住民とのまちづくり活動がスタートした。地区の魅力探しの第一歩はマップづくり、をスローガンに足で稼いだ市民手作りの地図を作った。市民参加の音楽祭をやろうと地域の神社仏閣や庭園で「やまのて音楽祭」が始まる。歴史的建造物の保存活用に向けたワークショップも重層的に実施。その成果は、市民団体NPO揚輝荘の会の設立へとつながり、揚輝荘の保存活用に大きく貢献した。
 その後、四観音道西地区の高架下の整備を地域住民と検討を重ねた。エルイー創造研究所(現伊藤建築設計事務所 エルイー創造研究室)が行政と市民と大学をつないだ。学生たちによるレンガを素材とするデザイン案が全面的に受入れられ、煮詰まっていた状況が一挙に動いた。今では高架下が市民手作りによる活動の場として活用されている。
いずれも名古屋における市民主体のまちづくり活動として特記されるもので、設計事務所の守備範囲がモノからコトへと展開する過程を垣間見た。

Profession & Education — 建築家の仕事

 日本建築家協会(JIA)東海支部が芸術工学部で2016年の後期「建築家の仕事」という授業を開講した。2回目に森口雅文氏(現取締役会長)と渡辺誠一氏(元常務取締役構造総括)が登壇。森口さんは授業の始まる1時間前からスタンバイ。仕事へ向き合うていねいな姿勢ぶりはまったく変わらない。渡辺先生は、設計事務所で構造技術者として活躍の一方、学究肌の理論派として研究活動をされた。研究に対する姿勢は大いに励みになった。建築家の責任、技術者の倫理を踏まえ、齢80なれど現役で仕事ができる建築の魅力を余すところなく話された。
 お二人が初期に取り組んだ中京テレビの放送タワー。目と鼻の先にあった柳澤忠先生の設計事務所で愛知県赤十字血液センターの手伝いをしていたことを思い出す。当時鋤納社長にJIAへの入会をご推薦いただき、職能団体と大学教育の間を行ったり来たりしている成果でもある。JIAメンバーとの交流から多くの刺激を受け、触発されている。

Next & Future — 次の50年

 自らの経歴とからめながら、伊藤建築設計事務所がどんな役割を果たしてきたのか綴ってみた。そこには創立の理念を継承しながら、激しく変動する社会を先取りしながら建築を刻み続ける姿があった。名古屋の建築家と専門技術者たちが次の時代を見据えながら次の50年に向かいはじめている。

鈴木賢一(すずきけんいち)
博士(工学)
名古屋市立大学芸術工学部教授
1957年愛知県生まれ。1986年名古屋大学大学院工学研究科建築学科博士課程修了後、伊藤建築設計事務所入社。1992年名古屋大学工学部建築学科助手、2006年より現職