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『talented architect』
清家 清
東京工業大学教授・工学博士

戦後すぐの頃、工業大学の建築材料研究所で田辺平学所長が研究プロジェクトとしてプレファブ建築を始めたとき、日建設計の協力を得たわけですが、そのときに伊藤さんにお目にかかったのが、伊藤さんとのおつきあいの始まりですから、30年以上にもなりましょう。私は工業大学で谷口教授の助手でした。はじめプロジェクトのテーマはアルミニウムを主材料ということで、新扶桑金属(現住友金属)やトヨタ自動車も協同研究に加ってもらうことで、なぜか名古屋が中心だったような気がします。その関係もあってか、伊藤さんがいろいろメンドウを見て下さったのかとも思いますが、私と伊藤さんの関係の始まりです。その頃、私と一緒に製図を書いた仲間は片山節義氏で、その少し先任でいろいろ文旬を云っていたのが、塚本猛次氏(現日建社長)そういうのをとりまとめていたのが伊藤さんということになります。当時の日建の社長は尾崎嘉文氏の父君だったかと思いますが、私どもはそんな偉い人とは殆んど関係なく、伊藤さんも可成り偉いオジサンぐらいに思っていました。
このプロジェクトは結局早すぎたのでダメになりましたが、皆よい勉強にはなりました。伊藤さんと本当に親しくさせて頂くようになったのは、1995年夏コロラド州アスペンで開かれた国際会議にご一緒してからです。
近頃はいわゆる「外為」の制限が緩いので、誰でも海外旅行ができるようになりましたが当時はなかはか海外へ渡航することができない時代でした。伊藤さんはこのアスペンで開かれた第4回国際デザイン会議に日本代表として招かれ、講演されるということで、特に渡航が許可になったというわけです。講演はスライドを含めてのもので、戦後間もない日本の都市計画についてのもので聴衆に深い感銘を与え、拍手が何度も起りました。アメリカでは、だいたい拍手の程度でどれ程相手が感心しているかが判るので便利です。
伊藤さんの英語の補助は「意味論」で有名になりかけていた二世のサムエル早川教授がされたので、さらに聴衆の理解を深めたようです。早川教授は先年の大学騒動の頃カルフォル二ア大学の学長をしておられて、その鎮定がさえていることで、さらに有名になりました。他の講演者もベルトイヤ(椅子のデザインで有名)、ドレックスラー(ニューヨーク近代美術館員)など若手の将来を嘱望されている人物ばかりで、私もよい機会が与えられたと思っています。(私は丁度グロピウスのところへ勉強に行っていたときで、会議のことをグロピウス先生に相談したところ『YOU SHOULD GO』ということで出席させてもらいました。)会議が終ってから、伊藤さんの滞米中のご案内をしました。当時のアメリカは、いまのアメリカとちがって、何といっても立派な国でした。ふたりでヤジキタ道中、あちこち新建築を見て歩きました。最後はボストンでお別れしました。ボストンでは伊藤さんにはグロピウス邸で2泊していただきました。夏休みでグロピウス夫妻がケープコッドの別荘へ行っている間、私がグロピウス邸の留守番をしていたからです。グロピウス夫人には『日本の最もタレンテッドアーキテクトの一人を泊める』と報告しておきました。日本語になっているタレントということばは、少し意味がちがうようですが、英語の本来の意味で、伊藤さんはタレントのある建築家だと思います。単に設計がうまいというだけなら、それは単なるデザイナーで、アーキテクトではないのです。伊藤さんは設計だけでなく、それに加えて、何かゴタゴタしているものにひとつの秩序をつけて、とりまとめる役割のできるひとだからです。
日建設計を立派に育て、さらに日建設計を卒業(?)されて、いまご自身の事務所を立派にここまで持ってこられたことでもわかります。はじめに書いたプレファブ事始のメンドウをみて下さったときからそう思いました。何かそういうメンドウを見ることのできる人だと思います。アーキテクトのアーキというのはそういうまとめ役をいうようです。そうでないのは否定形でアナーキというのです。
伊藤さんはほんとうのアーキテクトの才能ータレントをお持ちで、それがいつまでも皆に敬愛されるタレントでもあるような気がするのです。クライアントからもコントラクターからも、さらに仲間や後輩の建築家からも敬愛される伊藤さんのタレントー才能がますます磨かれることを祈って擱単します。

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