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建築家・伊藤鑛一さん
竹腰健造
双星社竹腰建築事務所

外柔内剛と云う言葉が伊藤鑛一さんの人柄を評するに最も適当であるかも知れない。
伊藤さんは仕事に対しては非常に熱心で繊細な神経を持ち、氏に接する者に常に信頼感を与える人である。
私が伊藤さんを知ったのは昭和13年頃であった。伊藤さんは名古屋高等工業学校を卒業以来恩師であった同校教授の鈴木禎次先生の許にあって助手を勤め、其の後、同先生の仕事に従事して居られたが鈴木先生が死去されたため同窓の池田宮彦さんの推薦で昭和14年私共の事務所に来られ、重要な建物の設計を担当されていた。
昭和16年頃から太平洋戦争が次第に悪化して来た。人間一生の内には何度か環境の変化があるものだが、茲に伊藤さんにとっても又我々にとっても一大転機が迫って来た。
国家の運命をかけた大戦争だったが幸に事務所の方は経営的には順調に運んでいた。勿論工事は軍需工場等で、平和時のような美術建築は一つもなかった。
長谷部竹腰建築事務所は元来住友の工作部の解散によって出来たものだが、長谷部さんと私丈は解散後も住友の嘱託としてまだ住友本社に席があった。
住友も戦争の拡大と共に各種の事業が増大して来た。然し昭和初期の経済界の大不況のため工作部を解散したと同様、或いはそれ以上に、住友各店部で職員の大整理を断行したのであった。然るに数年後の思わざる大戦争のため軍需事業が起るという変化のため、人員の不足を来し、其の不足を補うため軍部又は官庁の人を以て所要社員を補充して居たのであるが、それでも尚人員が不足であった。
私は住友に入ってから何となく建築設計以外の仕事に利用されることが多かったが、戦局が差し迫って来た或日、住友本社の総理事の古田さんから会いたいと云って来られた。何事かと思って会ってみると私達の事務所を長谷部さんに任せて、私は此際再び住友に帰って来てくれないかと云われるのだ。
仕事の最大の得意先であり、今日尚住友に席が残っている私としては、義理もあって此国家の危機に一概に拒否する事も出来ないが、又一方建築事務所の方もこんな時代に長谷部さんも困られることが明らかであるから、決断に苦しんだ。長谷部さんとも相談の結果、結局総理事に対し元の工作部のように事務所全体を復帰させる事を提案した。幸にこの提案が容れられ、住友関係の不動産を結集、これに大阪北港株式会社と我々の事務所を加えた住友土地工務株式会社が出来たのであった。
私はその専務取締役となり戦時下の土地の処理の業務に携っていたが、結局は住友連系各社の間の資材の融通調整を計るのが、私の住友復帰を要請せられた主たる目的のようであった。
伊藤さんにも勿論新会社の建築の重要な職務につかれた。
然し、戦争は不幸にも我国の敗北となり全面降伏の敗戦国の悲惨な状態となった。
私はここでも又住友ビルへの聯合国軍の占入などの戦後処理の責任者として働かねばならなかったのである。聯合軍の敗戦後処理の第一歩は財閥解体で、その結果住友本社は20年10月に解消し、傘下の各社は本社とは無関係となり独立して営業することになった。住友本社解散後私は会社の社長となったが、満州国其の他から多数の建築の社員が帰国したのでその方面の仕事に忙殺されていた。
戦後のこととて土地の仕事は全然動かず、建築土木の仕事も手がつかず、他の旧建築会社も同様総ての業務が停止したため各社とも所員の整理で苦しんでいた。私達は昭和の大不況のための社員整理の苦い経験があり、退職者の惨状をつぶさに知っていたので、自ら帰郷などで去る者は追わないが馘首はしない事に定め、その代りに戦争が止んで各社が手持ちしていた資材を売って糊口をしのぶ事を考え商事部門を作った。其頃社名に財閥の名のある事が禁止されたため、住友も住友土地工務と云うのを改め、日本建設産業株式会社と改めたのである。「日建」の名も当時略称として使った。
その間聯合国の日本処理の問題も次第に進み、財閥の指定を受けた三井、三菱、住友等の各社を公職と認めた其重役を官公吏と共に公職追放令で処理する事が昭和22年1月の勅令第1号で公布せられ、同年3月中に私達は退職せねばならなくなった。
追放者は一切の公職につくことを禁じられ、又財閥の建物への出入も禁止され、又一切の給与の支給も禁止される程の苛酷なものであった。此の追放の方策は米国の南北戦争の時に用いられ其の効果が良かったので我国の敗戦処理に適用されたのだ。長谷部さん、尾崎さん、伊藤さんは幸に追放を免れたが、社長である私や重役であった池田宮彦さんは此の追放者の指定を受けた。
斯くして私は建築家として数十年培って来た数百の建築の所員と離され、主たる建築の委嘱先であった住友とを失ったのである。この追放令は一生続くと覚吾して悲観して居た。
当時私は60才で、当時の経済界の慣習は重役であった人も此年令で退職金を貰って停年退職するのであった。然しこんな状況の許で追放されたのでは死の宣告を受けたのと同じ様に感じた。其後3年日米関係の改善により追放解除されたが、其時は既に63才の老年であった。
日本建設産業も其後財閥の制限を解かれ、其の名も住友商事と改められたが、同時に建築部は昭和25年別会社となり、社名も前の会社の略称をとって「日建設計工務」とし尾崎さんが社長、伊藤さんが専務となった。新会社も64才を停年としたらしく尾崎さんも停年となった。
斯くして伊藤さんの社長時代が来たのであった。伊藤さんは其の手腕と人柄を買われて衆望を擔って社長に推されたのであったが、其の頃から日本経済界が復興時代に入り、建築界も経済の隆興と共に盛大となり、住友其の外の旧財閥も相互の連繋を計るようになり、日建も住友商事の一連系会社として今日の繁栄を来しているのである。然し伊藤さんにも旧例に従って64才の停年の時が来た。そして昭和41年には日建を退かれたのである。64才の停年例は旧住友にはあったが、特殊の技術である建築の場合必ずしも良い方法ではないと思う。前述のような私の場合のように戦犯者扱いの追放となり、一切の給与も停止され、旧連系の会社への出入も禁ぜられた場合は止むを得ないにしても、普通の場合は社長は退いても今日の状態では会長とかその他の職名により余生を安泰にして社運の隆昌を助ける方が本人の為にも会社の為にも良かったのではあるまいか。現に旧財閥の建築に関係のあるい或会社では此の方法をとって居るものもある。私の場合でも追放解除後、住友商事が聖心大学の仕事が英語での交渉が必要と云って私の助力を需めて来た事もある。伊藤さんの場合も社長退職後、別に建築事務所を創設して一生終るより会長等優遇地位を経て、余生を日建で終始して送る道を選んだ方が良かったのではないだろうか。
何れにしても伊藤さんは「日建」の社長の椅子を退かれ後に建築事務所を開かれ、非常な繁栄をして居られる事は慶賀に絶えない。
然し私としては旧来の「日建」並びに伊藤さんとの関係から何となく割り切れないものを感じる。
伊藤さんは今後も外柔内剛の強い性格と老練な技術とで世に認められ、繁栄をつづけられる事を信ずる。

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