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創立10周年に際して
伊藤 鑛一

私が伊藤建築設計事務所として発足しましたのが昭和42年12月1日でありましたので唯今8年と9ヶ月経過しました。鳥兎忽々時の流れの早いのに今更ながら驚かされます。建築画報社の小堀会長さんは時々お目にかかっておりましたが、来られる度ごとに十周年記念号はぜひ出しましょうと言われ、其の度ごとはれがましくてとことわりつづけてまいりました。さて、十周年を迎えるにことになり私も満9年間精進し努力してまいったのでここで、日建設計をさった後、満9年間の私の足跡を記録していただこうという気持ちになりました。其の機会をあたえてくださった小堀会長さんには謝意を表します。
またこの特集号をご覧いただくかたがたには建築家としてこういういきかたもあったのかと改めて見なおしていただき、なおこれからも御指導御鞭撻賜りますようお願いします。
さて、私は恩師鈴木禎次先生に師事し学生時代を通じますと20年近い年月、先生のもとにお世話になりました。先生は教授のかたわら創作活動もしておられた。各所の松坂屋百貨店の店舗、其の他施設が最も多かったです。第二次世界大戦が近づいた頃、鈴木さんが事務所をやめられて長谷部竹腰事務所に入れていただき竹腰健造先生師事することになりました。そして今日迄公私共先生に御指導にあづかっております。長谷部竹腰事務所が種々変貌して名称も幾度か変わりましたが、本筋はかわらずやがて日建設計工務株式会社となり、今の日建設計となるのです。
私は一貫してその会社におりまして通算して30年近くおりました。従って日建設計の創立の時は取締役、次に専務、副社長となり社長は8年つとめました。専務取締役の時代は名古屋事務所を兼務し、はじめ10人の技術所員をつれて大阪から名古屋にまいりっましたが、副社長となり大阪本社にもどった時は名古屋は所員200人をこえていました。私が社長になりました時は幸運にも我が国の高度成長時代に遭遇し、東京・名古屋は以前からありましたが、其の他北海道、東北、九州に事務所を設置して全国津々浦々まで建築設計の依嘱を相受け活発に活動しました。
クェイトのアラビア石油、マラヤのペナンの砂糖工場、ブラジルのウジミナス製鉄所の設計にもたずさわりました。私が日建をさるころの日建の仕事は東京では芝浦の貿易会館(42階)、パレスサイドビル、経団連会館、大阪では銀行協会、商工会議所、名古屋では商工会議所等の工事でありました。
幸い先輩やら日建の会社の皆様の御支援により建築事務所としての基礎も出来上がり、会社が私を必要とするのももうあまりない、むしろ此の際勇退して後進の人に譲った方が改革するにもやりよいでしょうし、それが一番よい路であると熟慮の結果、決心して了承を得て、昭和42年11月日建を退社しました。そして12月1日株式会社伊藤建築設計事務所創立という事にいたしました。
今迄私は東京、大阪、名古屋の三都市を10度うつり住みましたので此の三都市には沢山の知人が出来ました。建築家故郷にかえると業界紙にも書かれて我ながらおやと思いました。
日建設計で名古屋で共に働いていた人々が同志として10名ばかり参加して下さって、皆心を一つにしてめざましく事務所をもりたてて下さいまして今日に到ったのは法外のよろこびであり、且つ心強いかぎりで感謝しています。9年たって見ますとこの9年間世状も変化が大きく、特に東京の大きな力は名古屋にいてはどうにもならないところまで来ているのをひしひしと感じます。目下週に2日以上東京におることにしています。私が所員60人位の技術者の事務所をやりたいと考えていたことについてすこし申述べます。かつて昭和30年頃と昭和37年頃欧米其の他を計70日位でまわりました時に、各都市において事務所を二カ所宛訪問し其の実態を調査したことがあります。日記を調べてみますと1955年8月26日金曜日「イタリア、ミラノにおきましてDr.Arch.Prof.Giovanniにあう。彼は大学の先生で事務所もやっている人で、私が日本から来た800人くらいの技術者を持っている事務所の副社長であると日建の紹介しますと彼はアメリカには大規模事務所があるときいている。日本にもそうまでいったのか伊太利もそうなるよう考えている。目下伊太利では建築事務所は家庭工芸の発達した程度で、皆小事務所でやっている。大規模建築には事務所の連合によって設計していくのが一般であるという話やら、種々話しあってかえった。」又日記を見ると1962年4月6日「Milanoは桜がさいていていまや春たけなわ、ピレリービル見学、地上32階地価階ArchhitectsはG.Ponti A. Fornaroli、A. Rosselli、G.G.Valtolina、E.Dellユ Orto Structural design : A.Danusso、P.L,Nervi.まさに連合組織である」 そのころから考えていたのですが日建の方はもう卒業したと自分では思っている。一つ自分でちいさくてもまとまった事務所がやってみたい。建築家は一生なまけてはいけないと自分にいいきかせてふみきったのであります。私の郷里は名古屋であることはさきに申しました。ところが名古屋商工会議所の会頭やら理事やら是非名古屋で中部圏で最もすぐれた事務所をおつくりなさいとすすめられたこともあったのですが、とにかくここまできて十周年をむかえふりかえって見ると、思うようになった事もありますが、なかなか“いすかのはしのくいちがい”といいますかこの9年間世の変化も大きく人も段々とかわってまいりまして、それでもおおむねご覧下さいます作品集に其の代表的なものをのせることが出来ましたので、御批判いただけるものと存じます。建築は色々の技術と芸術の集結したもので、それに施主の御注文なり考え方なりにも意をそそがねばならず、それでも全力投球したつもりです。幸いに私が事務所を創立するにあたり御推薦下さいました、そして今日迄御鞭撻くださいました多くの方々に感謝の意を表します。最後に近年建築事務所に公正取引委員会の介入問題、建築職能法の問題とか問題が山積しています。其の解決は大仕事であるが最も肝要な事である。欧米と日本とでは設計施工分離の問題は基盤がちがっていまして、其の分離が確立している欧米では何の問題もないのでありますが、我国では長年の慣習とはいえ当然そうあるべき医薬分業がまだ日の目を見ない建築界における設計と施工とがいますぐ分離すべしとは云わなくても、両方が当然そうあるべき本来の姿にかえり各立場を尊重して相融和し、天職とする道に進むべきです。そして設計が建築文化の伸展に重要、且つ神聖なるものであるかを大衆に理解されるよう、とにかく図面屋と同一視されがちな設計者をして社会的地位向上と豊かな制作に没頭できるような財的基盤の確立に力をつくしていただきたいです。又日記をひもとく「1955年8月18日DusseldolfにてProfesor Kongetnにあって彼の設計になる事務所と彼の建築事務所を案内してくれる。暑い日である彼は別れる時、さよなら、暑い暑いこれから家にかえりPoolに飛びこむのがたのしみだと言って握手した。握手しながら君の家にPoolがあるかとききますと、Poolぐらい建築家であればもっているのは珍しくないよと笑って言った。日本の建築家で家にPoolをもっている人があるだろうか。」余裕ある制作に没頭するには余裕のある環境が必要であります。

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