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ARCHITECT
清家 清

ひと昔まえ、本誌に伊藤さんのことを書きました。伊藤さんは日建設計を立派に育て、さらに日建設計を卒業(?)されて、いま亦、ご自身の事務所を立派に育てて、今日あらしめていらっしゃるワケで、本当の意味でのアーキテクト(建築家)だというようなことを書いたような気がします。アーキテクト(ARCHITECT)のアーキというのは統括するという程の意で、テクトはテクニックとかテクノロジー、テクニシャンなどと同じルーツです。アーキテクチャー(建築)というのはそういう意味で秩序だった総合的な技術ということです。
造船技師は英語でNAVAL ARCHITECといいます。LAND-SCAPE ARCHITECTという語もあります。みんなアーキテクトの仲間です。そのすべてを統括するのがアーキテクトで、それが伊藤さんです。
アーキの反対語はアナーキです。モナーキ(MONARCHY)というのは専制君主制という意です。建築家のなかにはモナーキテクトになって、クライアント(注文主)の云う事も聞かずに専制君主的な作家活動をする人もいます。伊藤さんはアナーキテクトでも、モナーキテクトでもない正真正銘のアーキテクトではないかと思っています。お人柄がそうなのです。
どんな小さな住宅を建てるにも1人で出来るものではありません。誰かと協力しなければ天幕ひとつ張れるものではないのです。伊藤さんは日建設計をつくるときから、この協力、協働ということを考えて来られたようです。日建設計の社長であった時代にも、また名古屋で伊藤建築設計事務所を主宰していらっしゃる現在もそういう意味で所員全体の仕事振りをよく見極めての上、よい建築をつくるシステムをつくり上げられたようです。
ところで、もうひとつ感心させられるのは伊藤建築設計事務所と、頭に伊藤の名を冠して、協働の裡に責任の所在をはっきりさせていらっしゃることです。クライアントに対しても、市民に対しても、或いは所員に対しても、施工者に対しても責任の所在をはっきりさせておくことは重要なことなのです。
完璧の設計図のつもりでも施工者やクライアントの間で読み違いということもあり得るのです。ドラフトマン(製図工)の画き間違いということもあります。そういう時でもその最終責任者/決定をするのは伊藤さんということを示しているのです。事務所は資本的には株式会社ですが、設計に関しての無限責任が伊藤さんの上に懸っていることを伊藤建築設計事務所という標示が示しています。
本誌が伊藤建築設計事務所特集を企画して、私に3000字程の原稿を書けというので、冒頭に書いた「ひと昔まえ」の原稿を後半に抄録させて頂いて、その3000字の責任を果させて頂きます。
戦後すぐの頃、工業大学の建築材料研究所で田辺平学所長が研究プロジェクトとしてプレファブ建築を始めたとき、日建設計の協力を得たわけですが、そのときに伊藤さんにお目にかかったのが、伊藤さんとのおつきあいの始まりですから、30年以上にもなりましょう。私は工業大学で谷口教授の助手でした。はじめプロジェクトのテーマはアルミニウムを主材料ということで、新扶桑金属(現住友金属)やトヨタ自動車も協同研究に加わってもらうことで、なぜか名古屋が中心だったような気がします。その関係もあってか、伊藤さんがいろいろメンドウを見て下さったのかとも思いますが、私と伊藤さんの関係の始まりです。その頃、私と一緒に製図を書いた仲間は片山節義氏で、その少し先任でいろいろ文句を云っていたのが、塚本猛次氏(日建社長=執筆当時)そういうのをとりまとめていたのが伊藤さんということになります。当時の日建の社長は尾崎嘉文氏の父君だったかと思いますが、私どもはそんな偉い人とは殆んど関係なく、伊藤さんも可成り偉いオジサンぐらいに思っていました。このプロジェクトは結局早すぎたのでダメになりましたが、皆よい勉強にはなりました。
伊藤さんと本当に親しくさせて頂くようになったのは、1955年夏コロラド州アスペンで開かれた国際会議にご一緒してからです。
近頃は誰でも海外旅行ができるようになりましたが当時は外貨の制限があってなかなか海外へ渡航することができない時代でした。伊藤さんはこのアスペンで開かれた第4回国際デザイン会議に日本代表として招かれ、講演されるということで、特に渡航が許可になったというわけです。講演はスライドを含めてのもので、戦後間もない日本の都市計画についてのもので聴衆に深い感銘を与え、拍手が何度も起りました。アメリカでは、だいたい拍手の程度でどれ程相手が感心しているかが判るので便利です。
伊藤さんの英語の補助は「意味論」で有名になりかけていた二世のサムエル早川教授がされたので、さらに聴衆の理解を深めたようです。早川教授は先年の大学騒動の頃カリフォルニア大学の学長をしておられて、その鎮定がさえていることで、さらに有名になりました。他の講演者もベルトイヤ(椅子のデザインで有名)、ドレッスラー(ニューヨーク近代美術館員)など若手(当時)の将来を嘱望されている人物ばかりで、私もよい機会が与えられたと思っています。
会議が終ってから、伊藤さんの滞米中のご案内をしました。当時のアメリカは、いまのアメリカとちがって、何といっても立派な国でした。ふたりでヤジキタ道中、あちこち新建築を見て歩きました。最後はボストンでお別れしました。ボストンでは伊藤さんにはグロピウス邸で2泊していただきました。夏休みで先生のグロピウス夫妻がケープコッドの別荘へ行っている間、私がグロピウス邸の留守番をしていたからです。グロピウス夫人には『日本の最も優れたアーキテクトの一人を泊める』と報告しておきました。
伊藤さんは、ほんとうのアーキテクトの才能をお持ちで、それがいつまでも皆に敬愛される才能でもあるような気がするのです。クライアントからもコントラクターからも、さらに仲間や後輩の建築家からも敬愛される伊藤さんの才能がますます老練の度を加えられることを祈って擱筆します。


清家 清(せいけ きよし)
(社)日本建築学会会長
東京工業大学名誉教授
東京芸術大学美術学部長

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